カモノハシ殺人事件

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カモノハシ殺人事件

言葉が人を殺す

また一人、無責任な人々の言葉が人を殺したようです。詳細については触れませんが、匿名性という安全装置に守られた環境下でイキってる輩が、相手の人格や尊厳への配慮すら忘れて、不必要な攻撃をした結果だと思われます。いささか偏った見方に感じる方もいるかも知れませんが、それでも敢えてこの方向で話を進めさせて頂きます。

「自分は納豆が嫌いだ」はわかるのですが、「納豆が好きなヤツはキ◯ガイだ」と発言する必要性はどこにあるのでしょう?自分の主張を展開するのと、他者の主張を否定するのは同義ではないと思います。

こうした事件(犯人がいないものは事故ですが、犯人が存在するものは事件であり、自分は敢えて事件と称させてもらいます。)があるたびに、心無き攻撃者を断罪するような記事やコメントは多数見られると思うので、自分は少々切り口を変え、この様な事件のメカニズムについて考察したいと思います。

日本人の品格

自分は常日頃から疑問視している事ですが、日本人は品行方正で奥ゆかしく、律儀で真面目。社会のルールや規範が良く守られていると聞きます。
果たして本当にそうでしょうか?

海外の人たちからよく聞くのは、順番待ちや渋滞の時、日本人はちゃんと行列を作って並ぶということです。こうした場面での秩序が保たれた行動に、外国の方たちは感心するそうです。
昔、とあるテレビ番組で見たのですが、坂道で買い物袋が破れて中の果物が転がっていった時、通行人たちが拾ってくれるのか、というのをいろんな国で試した結果、日本とフランスがかなりの確率で拾ってくれていました。ただ、他の国に見られなかった特徴として、他の国々の人たちは咄嗟に足で止めるのに対して、日本の人たちは手で掴もうと走って追いかけていました。咄嗟の時は足を出して転がるのを止める方が合理的ですが、そんな時ですら日本人の中には、食べるものを足蹴にする事が良くないことだという意識が働くようです。

自分が幼少期を過ごした田舎町の駅前にある郵便局には、季節になると表のベンチにネット入りのミカンが並びます。そこには、ダンボールの切れ端に書かれた100円の文字と、お金を入れるためのクッキー缶が置いてあります。
不思議なことにお金もミカンも無くなりません。
ちゃんと代金は支払われ、その代金を盗む人もいません。

クールジャパンと一時期もてはやされた、日本人自身は当たり前過ぎて気づいてないけどこれが日本の良い所、といった部分はいろいろあると思います。
しかし、自分が疑問視するのは、果たして人目が無ければどうなのかというところです。
先程のミカンのケースは、人目が無いのに、というのがポイントです。
では、隊列や順序を守ることに関してはどうでしょう?

仮に広域自然災害があったとします。水や食料は有限です。各自の割り当て分を順番に配って行きます。こんな時、日本人はちゃんと順番を守るケースを良く見かけます。それとは逆に、暴動に発展する国も目にします。
これは確かに秩序だった日本人の特性ではあるのでしょう。
ここで、列を乱す人が現れたとします。要は横入りと言うやつです。勇気ある誰かがそれを咎めます。自分から言い出す勇気が無かった人も、正しい行いという大義と、心強い群衆という仲間を得て、この秩序を乱す「悪」を糾弾します。
このシーンが容易に想像できるということは、もし自分が順番を守らなかった時に何が起きるか想像するのも容易だということです。
つまり、秩序を守っている人たちの中の一定量の人たちは、倫理的に正しい行動をとっているのではなくて、トラブルを避ける事を優先した行動選択をしているだけではないかということです。

自分にとって不利益になる行動を避けているだけなのであれば、自分の不利益にならないと判断した時、その人はどう行動するでしょう?
自分は喫煙者なので、喫煙所を利用します。喫煙所の多くは酷いものです。空になったタバコの箱、飲み終わったペットボトルなどが放置してあるのをよく見かけます。すぐ横にゴミ箱があっても、です。
喫煙者が嫌われるのも納得です。

相互監視によって保たれている秩序があるのであれば、その相互監視機能が匿名性により希薄になるネット社会はどうなのでしょう?
普段善人ヅラして生きている奴等の一部は、本性を表すのではないでしょうか?
これはおそらくこの国に限った事ではないと思います。

SNSで拡散される誹謗中傷のイメージ

通常と例外

ではなぜ人は攻撃対象を探してまで攻撃するのでしょう?
別に匿名性というシールドを手に入れたとしても、他者を攻撃する必然性はありません。なので大半の人は攻撃しないのでしょう。しかし、問題の本質は攻撃するかどうかではなく、攻撃的思考の発生源になりうる心理作用や思考にあると考えます。

ところで皆さんは単孔類と分類される生き物たちをご存知でしょうか?カモノハシやハリモグラなどがこれに該当するのですが、実に不思議な生き物です。その名の由来となった特徴として、排泄管と産道が一本になっていて、哺乳類に分類されてはいるのですが、なんと卵を産みます。それでいて、子供には授乳します。他にも、鱗の痕跡があったり、不完全な恒温性であったり、くちばしがあったりと、我々が学校で習った動物の分類的特徴からは大きく離れた存在です。
もうちょっと身近な存在で話をすると、ダンゴムシや蜘蛛は昆虫ではなく、節足動物に分類されます。

えっ?何の話かって?
カモノハシはきっと「私、哺乳類なのに卵産むの変だって言われるから、卵産むのやーめた」って言わないだろうし、ダンゴムシだって「俺、もっと虫っぽくなりたいから、体を三分割しよー」って言わないと思います。きっと本人たちは、人間がどう分類しようがそんなことには関係なく、幸せに(実際に幸せかどうかはわかりませんが)暮らしていけると思います。

きっと人間には、未知のものに対する畏怖の念があるのだと思います。その原理を理解していなかった頃の人類にとって、雷とは恐ろしいものだったでしょうし、現代においても、人間がまだ理解に達していないものが、怪奇現象や都市伝説や宗教といったものなどを産み出していたりもします。

理解していないものに対する居心地の悪さや恐怖を払拭するために、人々は調べ、学び、考えてきたのだと思います。そしてそれが、人類と文化と技術を発展させてきました。恐怖の対象も、わかってしまえば何てことありません。
理解したと判断するための手段の一つが分類です。性質を知ることでそれらを特徴ごとにグループ分けし、それぞれにラベルを貼っていく。しかし、この手段には欠点があります。当然の事ではありますが、人間が理解するために作った分類なだけで、自然界はそんな事お構いなしなのです。別に、人間に理解してもらうために存在しているわけではありません。そこで人間は考えました。”その他”とか、”例外”という、万能なカテゴリーです。これは便利です。通常のルールによる分類からはみ出たものは、全てこの”例外”枠に突っ込んでしまえば良いのです。

しかし、これには別の作用もあります。
例外があるという事は、例外ではないものがあることを意味します。当たり前と思うかもしれませんが、とても重要な事だと思います。例外に対して通常が存在する。これが意味するところは、ノーマルに対してアブノーマルが存在し、普通に対して異常が存在し、常識に対して非常識が存在するという事です。
そして人は、この”例外”枠に突っ込んだ、自分たちの考える”通常”とは異なる存在を、異常、非常識、もしくはアブノーマルだと認識します。
白人であることが正常だと思う人は、有色人種を異常だと認識し、異性を性的指向の対象とする事を正常だと思う人は、同性愛者を異常だと認識し、どれだけ非合理的な慣習だとしても、それを常識だと思う人は、それに倣わない人を非常識だと認識します。
要は、差別やいじめの原因因子です。

この考察は、攻撃対象者の選定の説明にはなるかもしれませんが、攻撃そのものの理由にはなっていません。
次は、そもそもなぜ他者を攻撃するのかを考えてみたいと思います。

PCを前にBad評価に落ち込む人

悪口の本質

人はなぜ、メリットを得られるとは思えない局面に於いて、わざわざ他者を攻撃するのか。その不必要で不可解な心理を解析するに当たって、自分は先ず、悪口の定義について考えてみました。

相手を傷つける言葉を悪口と言うのならば、自分に告白してきた人に伝える「ごめんなさい」も悪口になってしまいます。それに、メンタルが強くて傷付かない相手に対しては、何を言っても悪口にならないことになってしまいます。
なんだか違う気がします。
では、悪意の有無はどうでしょう?悪気のない一言は悪口にならないでしょうか?
これも違う気がします。
自分の考えた悪口の本質は、差別化です。差別化と言う表現が適切かどうかはわかりませんが、相手と自分は別属性で、自分は優、相手は劣であると喧伝するために発する言葉なのではないでしょうか?
「アイツよりはマシ」だとか、「アイツは低俗だ」と位置付ける事によって、相対的優位性を保ちたい心理の現れなのではないかと考えます。
例えば、相手を「デブ」と罵ることで言外に、「アイツのように太ってない俺は、少なくともアイツよりはイケてる」と周囲(正確には自己認識)に印象付けたいといった感じです。

自分の考察はあくまで自分の考えであって、本当にそれが正しいのかわかりませんが、もしそれが本当なら、あまりにも情けない話です。
他人との比較でしか自分の価値を表現できず、しかも、自分の価値を高めるのではなく、相手を蔑みこき下ろすことで、相対的優位性を保とうとする。
絶対的評価と絶対的自信の無い人間が、プライドと根拠の無い自信だけを頼りにセルフイメージを肥大化させ、自身の雑魚さ加減に気付きもせずに、主役気取りで周囲を雑魚扱いする。
本当に情けない話です。

この文章だって見る人が見れば、自分が”攻撃者”と位置付ける存在を”劣”とすることによって、自分を”優”であると印象付けるためのものに映るのかもしれません。
しかし、自分にとってそんなことは些末な事です。
この記事が誰かの目に触れ、考える切っ掛けになってくれれば本望です。
特に、言葉を浴びせられる人たちが攻撃者たちの心理を客観視することで、少しでもダメージを軽減する緩衝材として作用してくれればと思います。

この記事に対してだって攻撃は来るかもしれませんが…
ボクは死にましぇん

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